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大山崎町には歴史や多くの文化財、社寺があり、毎年多くの観光客が訪れています。
大山崎町の歴史のなかで、秀吉と光秀が戦った「天下分け目の天王山−山崎合戦」はあまりにも有名ですが、まだまだ大山崎町には、住民でさえ知らない社寺にまつわるエピソードなどが多く残されており、普段何気なく通りすぎている所にも歴史が隠れていたりします。
この「大山崎の伝説」ページでは、大山崎に古くから伝わる多くの伝説(昔話)をご紹介しています。当時のまちの様子や住民の生活ぶりがうかがえます。
観光で大山崎にお越しになる方は、観光名所から少し足を伸ばして、是非、伝説の地を散策してみて下さい。住民の方は親子で散策してみたり、おじいちゃん・おばあちゃんと大山崎の伝説についてお話ししてみるのも良いでしょう。 |
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山伏の塚の大日さん (乙訓郡大山崎町円明寺山伏) |
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「ひょうざえもーん ひょうざえもーん はようかえしてくれーえ」
その昔、時代は江戸末期の天保(1830〜1844年)のころ。円明寺村(大山崎町円明寺)に農業を営む兵左衛門の家が火事で焼けた。兵左衛門は、どうして家を直そうかと考えあぐねた末、先祖代々耕してきた山伏(円明寺の小字名)の土地を、同じ村の弥衛門に買ってもらうことにした。
その次の日からだ。弥衛門の夢まくらに大日如来が立つようになったのは。そして如来は呼び続けた。
「兵左衛門、早く帰してくれ」
兵左衛門が手離した土地の中に“山伏の塚”という小さな森があり、この中に大日如来地蔵がまつられていたのだ。
気の毒な弥衛門。この大日如来の毎夜の出現に気味悪くなって兵左衛門と相談、「たたりでもあれば恐ろしい」と、結局、元どおり兵左衛門の所有地として、この大日如来地蔵を守っていくことにした。
この「兵左衛門早う帰して」の話は、やがて村中に広まった。その後、この森の神木といわれるカキの木を切り取ったため、災難にあったという話や、また、不治の病にかかり医者からも見離された村人が大日如来に日参、おかげで完治した話などが伝えられた。村人の間では
「粗末にするとたたりが恐ろしいが、大切にまつっていると、願いをかなえて下さる」
と、この“山伏の塚”を訪れる人が増え、いつしか“大日さん”の呼び名で、村の地蔵さんとして親しまれるようになった。
この“大日さん”。いまでも昔からこの地に住む農夫の手で毎朝、花や水などが供えられており、また、毎年9月28日の「大日さんの命日」には、尼講の人や近所の人ら十五、六人が“山伏の塚”に集まり、ちょうちんや幕で飾り付けをしたあと、ぼたもちを供えて約2時間、念仏をとなえて供養している。が、田んぼのあぜ道を通らなければお参りできないため、近くの円明寺が丘団地に住む人でも知らない人が多い。
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阪急バス円明寺停留所から西へ歩いて約10分。右手、田んぼの中にぽっかり浮かぶ直径30メートルほどの円形の森が見える。現在でもこの森の木を切る人はなく昼間でも薄暗い。大日如来地蔵は、高さ約1メートルの石仏で森の中央部に東向きに鎮座。鎌倉時代の石仏ともいわれているが、いつのころからこの地にまつられたかは明らかでない。 |
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〈本文は京都新聞社提供〉
「京都 乙訓・山城の伝説」(京都新聞社編・刊)より |
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竜王神社の雨ごい (乙訓郡大山崎町円明寺山伏) |
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天王山の山すそに広がる円明寺村。昔、8月から9月へ、実りの秋を前に日照りが続くと、村人は竜神をまつる「竜王神社」に集まった。
「あーめー、たーまーえ。あーめー、たーまーえー」
本殿をぐるぐる回りながら、“雨ごい”をした。この円明寺村は水利が悪く、村人はたえず、水に苦しんでいた。ただでさえ水不足なのに、少しでも日照りが続こうものなら、田んぼはたちまち干上がってしまう。“雨ごい”の祈りは、まさに生活をかけたものだった。
さらに昔のこと。天王山から柳谷観音へ向かう山道に池があった。その池に、雨を意のままにして水を支配するという竜神が降り立った。水に苦しむ村人をみかねてのこと。池には金の甲羅をしたカメも住むといい、いつしか「竜王神社」のほこらも建てられ、村の守護神として信仰を集めていた。
“雨ごい”の夜。村人は村の長老を先頭に、ヨシやカヤがうっそうと茂る山道を登る。社頭に着くと、「雨給え、雨給え」。その大合唱は、えんえん、夜明けが来ても続いた。
毎年のように、この祈りはみられた。そして、江戸後期は天明4年(1784)のこと。世にいう“天明の大ききん”が、この円明寺村にも襲った。
「竜神さまにすがるより道はなかろうが…」
村人の必死の“雨ごい”が始まった。三日、四日、五日…。願いが竜神に通じてか、そのうちに、ポツリ、ポツリ、干天の慈雨。大ききんの被害を最小限にくいとめることができた。村人は社前に灯ろうを奉納して感謝にかえた。その後、江戸末期。神社もろとも、農耕守護神の小倉神社(現・大山崎町)境内にうつされた。この“雨ごい”の風習、昭和10年ごろまで続いたという。
竜神の池は、山林に囲まれて現存。かつての“雨ごい”のあとを残しており、小倉神社境内にうつった竜王神社も健在。2メートル四方ぐらいの小さな社だが、いまも“二百十日”の厄日にあたる9月1日、地元の農家から30人ぐらいが出仕する。お神酒どっくりに灯明を供え、厄払いの念仏供養が続けられている。 |
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阪急バス円明寺口バス停下車、西へ約15分歩いた所に小倉神社がある。本殿手前に「稲荷」「天神」「若宮」とこの「竜王神社」の4つのほこらが並んでいる。一般の参拝者は素通りすることが多いが、他の3つの社は、下植野、下海印寺、円明寺の氏神さんとしてまつられている。 |
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〈本文は京都新聞社提供〉
「京都 乙訓・山城の伝説」(京都新聞社編・刊)より |
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桓武平氏の祖 (乙訓郡大山崎町円明寺若宮前) |
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大山崎町円明寺に“葛原(かつらはら)”という地名がある。そばに円明寺が丘団地が広がるところ。桓武天皇(781〜806)の皇子・葛原親王ゆかりの地といわれる。
葛原親王(786〜853)は第三皇子とも第五皇子だったとも記録されているが、大山崎に河陽離宮をおいた嵯峨天皇の異腹の兄弟であり、四品治部卿から大蔵卿、弾圧尹、式部卿、中務卿など、当時の朝廷政府の要職を経て、一品(第一位の親王)にまで昇進した。愛人が多く、子も多かった桓武天皇の皇子の中でも、エリートだったわけだが、王朝の権門にこびることなく、また、権門をカサにきることなく、いや、皇族きらいとして68歳の一生を終えた。
史書は伝えている。「物におごらず、書物を歴覧して、古今の成敗をもって自らを戒め、子に王の称号をやめて…」(大山崎史談会)、という。そして、二人の子には“平朝臣”の姓を請い受けて、いわゆる“桓武平氏”の祖となった。臣籍降下だ。
親王の孫が、名実ともに“平氏”を名のった高望王。その孫が平将門で、親王の“玄孫”ということになる。
団地以前。竹やぶの中に“丸山”と呼ばれる古塚があった。これが、親王の墓とも火葬地とも伝えられてきた。墓が語り伝えただけだったのは、親王が遺名として、死後は手厚く葬ることを固く禁じ、また朝廷の監督保護を固く辞退したためだという。皇族きらいの親王をほうふつとさせる話だが、その足跡は、確かにこの地に残されている、とされている。
桓武天皇の皇后ら、乙訓にゆかりの御陵が多いこと。親王の兄・淳和天皇は物集女で火葬、小塩山に陵が指定されていること。親王の弟に、山崎の地名をとった賀陽親王の名があること−などから、さらに、地名の葛原と親王の名が一致することから、親王の墓があっても不思議ではないという。
この“伝承地”付近から、石棺の一部とみられる板石が掘り出されたことがある。長い間、農道用として、近くを流れる久保川の橋がわりに使われていた。親王の石棺であったかどうかは、明らかではないが、形や大きさから、ゆかりの地を裏付けるものとして、そのままこの板石を利用。昭和44年6月、「葛原親王塚伝承地」の碑が建てられた。 |
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碑は阪急バス・長岡天神から金ヶ原行きで、円明寺が丘バス停で下車、円明寺が丘団地・葛原児童公園内にある。昭和40年、京都府が団地づくりに着手した際、町文化協会と府が話しあいの結果、文化財を守ろうと、墓の伝承地を児童公園として保存することにした。 |
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〈本文は京都新聞社提供〉
「京都 乙訓・山城の伝説」(京都新聞社編・刊)より |
| 注) |
一部の表外漢字を大山崎町商工会で常用漢字に変更しました。 |
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Email : oyamazaki-sci@kyoto-fsci.or.jp
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