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大山崎山荘(現アサヒビール大山崎山荘美術館)を建造した実業家、故加賀正太郎氏は、大正3年(1914年)頃から山荘内の温室にて蘭栽培を手掛けました。
加賀正太郎氏は、世界各地から取り寄せた蘭の品種の栽培や交配を進め、その数は世界的新種を含めて1,140種にのぼりました。当時、大山崎山荘は西日本の蘭栽培のメッカとなり、学術名に“オオヤマザキ”と名付けられた蘭も多くあります。
現在の大山崎には、かつて蘭のメッカであった面影はどこにも見当たりません。しかしながら、加賀正太郎氏は栽培した蘭を「蘭花譜(らんかふ)」という植物画にまとめ、今もその「蘭花譜」は、彼の蘭に対する熱い思いとともに残されています。
大山崎町商工会では、青年部が中心となって、平成13年度(2001年)より「蘭のまち」の再生に向け取り組んでいます。 |
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蘭栽培が行われていた温室(アサヒビール大山崎山荘美術館) |
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「蘭花譜」とは、加賀正太郎氏が大山崎山荘内で栽培した蘭1,140種のうち、優良種だけを計104枚の植物画にまとめ、昭和21年(1946年)に編集・刊行した蘭の画集のことであります。
104枚の蘭花譜は、うち84枚が浮世絵の技法を受け継ぐ木版画であり、残りの20枚は油絵の印刷と白黒写真で構成されています。
木版画の下絵は、日本画の池田瑞月氏が担当し、彫には大倉半兵衛氏、摺には大岩雅泉堂氏がそれぞれ起用されました。加賀正太郎氏は、蘭花譜を摺る際に何度も試し摺りをおこない、特に白色をきれいに表現するため、胡粉を使用しました。また、作品のなかには120回も摺り合わせたものもあります。
完成した蘭花譜は、100セットが世界の有力大学等に寄贈され、200セットが市販されて続刊の資金に充てられました。
日本独特の植物画として編集された「蘭花譜」は、加賀正太郎氏の蘭に対する熱い思いとともに、学術記録・美術品として今に残っています。

大山崎町商工会青年部では、104 点の作品のうち、特に美しい作品を絵はがきにしました。 |
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| 『サイバー蘭花譜展』は、104枚の蘭花譜のうち、19枚の蘭花譜を展示するバーチャル美術館です。ごゆっくりとお楽しみ下さい。 |
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| ※ ご覧いただくにはマクロメディア・フラッシュが必要です。 |
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| 注) |
本物の蘭花譜と比べると版画の立体感や色合いの程度が落ちます。 |
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加賀正太郎氏は、明治21年に大阪市東区今橋2丁目で生まれ、その恵まれた経済力と卓越した才能によって様々な分野で手腕を発揮した。
加賀家は江戸時代から両替商を生業とし、明治に入ると証券業にも参入する。正太郎氏の父、市太郎氏は辣腕実業家として知られ、彼によって加賀商店は業界でも一流となった。しかし、多忙の余り病を得て、47歳でこの世を去る。わずか12歳の正太郎氏は家督を相続するが、母の決断で、彼が成人するまで店は閉めることになった。やがて、東京高等商業学校に入学した彼は、見聞を広めるために欧州遊学に旅立った。その折、かねてより計画していたヨーロッパ・アルプスのユングフラウ(スイス・4158m)の登頂に成功。日本人として、初の快挙であった。また、イギリス滞在中にはキュー・ガーデンなどでの蘭栽培を見学し、深い感銘を受ける。
帰国した正太郎氏は明治44年に学業を終え、大阪に帰り、父の死で中断していた家業を11年ぶりに再開した。同時に大山崎の地に広大な土地を買い求め、大正3年には、自らの設計・管理で山荘の庭園作りに取り掛かり、蘭栽培も始めた。それはしだいに、規模・質共に本格的なものになり、大山崎山荘は西日本における蘭作りのメッカとしてその名をとどかせる。また、ゴルフの才能も人並みはずれ、茨木カンツリークラブのコースチェアマンとして活躍した。一方、実業家としても証券業の他、山林経営、土地開発そしてニッカ・ウィスキーの創始者の一人として、大きな業績を残した。 |
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| 【加賀正太郎 略歴】 |
| 明治21年(1888) |
1月17日大阪高麗橋にて出生。父加賀市太郎、母レイの長男。 |
| 明治40年(1907) |
東京高等商業学校(現、一橋大学)入学。 |
| 明治43年(1910) |
日英博覧会の見学と欧米視察旅行(スイス・アルプス・ユングウラフ日本人初登頂。) |
| 明治44年(1911) |
証券業を11年振りに再開(加賀証券)。東京高等商業学校を卒業。 |
| 大正 3年(1914) |
蘭の栽培に着手。 |
| 大正 4年(1915) |
大山崎山荘建築に着手。 |
| 大正11年(1922) |
蘭栽培のため、新宿御苑から後藤兼吉氏を招く。 |
| 大正14年(1925) |
茨木カンツリー倶楽部・グリーン委員長に就任し、コースを改良する。 |
| 昭和 9年(1934) |
大日本果汁株式会社設立。(現、ニッカウヰスキー梶j |
| 昭和21年(1946) |
蘭花譜第一輯を発行。 |
| 昭和29年(1954) |
大阪赤十字病院で喉頭癌のため死去(享年66歳)。 |
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| 大山崎町商工会のイメージキャラクターは「蘭の妖精ララン」と言います。大山崎町がかつて西日本の蘭栽培のメッカであったことに因んで誕生しました。 |
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